広見の石橋
2014年06月25日
石橋、石橋、石橋
先週末から
クマ被害や出没で
何かと話題になっている匹見町。
今年は昼夜関係なく人里にクマが
多数出没しています。
小学校の登下校時に
先生や行政職員の方も引率されています。
できるだけ一人で出歩かない。
音のする鈴やラジオを持参し
こちらの存在を相手に伝える、などの注意が必要です。
早くこの騒動が落ち着くことを願っています。
□■□■□■□■□□■□■□■□■□
さて話は変わりますが
大分市在住の岡崎さんに
全国の石橋などを集めたHPがあることを
ご紹介いただきました。
宮崎市在住の贄田岳和さんのHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋」です。
こちらをみると
「石橋」のフレーズがいっぱい。
なんだか緊張してしまいました。
その中に
匹見町では、広見(ひろみ)の石橋も紹介されています。
ブログ内から写真を転載させていただきます。
この石橋は
吉和へ続く国道488号にあるのですが
現在、匹見峡レストパークから先は通行止めになっているため
県道42号⇒林道三坂八郎線⇒広島側の国道488号からしか
たどり着くことはできません。
広見の石橋については
匹見町在住の渡辺友千代さんが詳しいです。
2009年3月22日付の
山陰中央新報に寄稿された原稿を
下に転載させていただきます。
□■□■□■□■□□■□■□■□■□
広見の石橋 - 「匹見再発見」 45
谷川などの上を通りやすく架けられた橋。
今の幹線道路はコンクリート製が主流だ。
匹見を縦断する国道488号線の裏匹見峡から広島県廿日市市吉和間は
特に狭く曲がりくねって旧来のままだが
それでも橋はコンクリート製のものが大半を占める。
ただし1か所であるが、五里山の山すそのセイコ谷に架かるのは
珍しく石橋で構築されたものだ。
その石橋、上面にはアスファルトが張られ、しかも直線的なために
側面や下方が石組で構築されていることに気づく人はほとんどいないだろう。
施工は、明治30年代に加計の佐々木三十郎の指導で架けられたものと伝えられ
幅10.2m、長さ7.6m、高さ4m余りの当時としては比較的大型で、技巧に富んだものだ。
流路口はアーチ型とよばれるものだが、恰好は釣鐘形で、幅・高さとも約3mある。
技法は、進行方向に縦型に並べる中国式のリブアーチといわれるものではなく
角錐台形のレンガ積みの欧州型といわれるものらしい。
石橋といえば、寛永11(1634)年に造られたという長崎の眼鏡橋が有名。
その後、熊本を中心に九州地方に広がっていったものらしい。
匹見地方の棚田にみる石垣築地などは
近世から明治期にかけて芸北地方の石工師によってもたらされたといわれている。
匹見にもこんな石橋が・・、と感嘆した。
石橋に限らず、何でも目をこらし、また目先を変えてみると
そこには新しく珍しい発見があるものだ。
まさに本石橋は、匹見の、いや益田市にとっての近代化遺産といえるものだろう。
クマ被害や出没で
何かと話題になっている匹見町。
今年は昼夜関係なく人里にクマが
多数出没しています。
小学校の登下校時に
先生や行政職員の方も引率されています。
できるだけ一人で出歩かない。
音のする鈴やラジオを持参し
こちらの存在を相手に伝える、などの注意が必要です。
早くこの騒動が落ち着くことを願っています。
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さて話は変わりますが
大分市在住の岡崎さんに
全国の石橋などを集めたHPがあることを
ご紹介いただきました。
宮崎市在住の贄田岳和さんのHP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋」です。
こちらをみると
「石橋」のフレーズがいっぱい。
なんだか緊張してしまいました。
その中に
匹見町では、広見(ひろみ)の石橋も紹介されています。
ブログ内から写真を転載させていただきます。
この石橋は
吉和へ続く国道488号にあるのですが
現在、匹見峡レストパークから先は通行止めになっているため
県道42号⇒林道三坂八郎線⇒広島側の国道488号からしか
たどり着くことはできません。
広見の石橋については
匹見町在住の渡辺友千代さんが詳しいです。
2009年3月22日付の
山陰中央新報に寄稿された原稿を
下に転載させていただきます。
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広見の石橋 - 「匹見再発見」 45
谷川などの上を通りやすく架けられた橋。
今の幹線道路はコンクリート製が主流だ。
匹見を縦断する国道488号線の裏匹見峡から広島県廿日市市吉和間は
特に狭く曲がりくねって旧来のままだが
それでも橋はコンクリート製のものが大半を占める。
ただし1か所であるが、五里山の山すそのセイコ谷に架かるのは
珍しく石橋で構築されたものだ。
その石橋、上面にはアスファルトが張られ、しかも直線的なために
側面や下方が石組で構築されていることに気づく人はほとんどいないだろう。
施工は、明治30年代に加計の佐々木三十郎の指導で架けられたものと伝えられ
幅10.2m、長さ7.6m、高さ4m余りの当時としては比較的大型で、技巧に富んだものだ。
流路口はアーチ型とよばれるものだが、恰好は釣鐘形で、幅・高さとも約3mある。
技法は、進行方向に縦型に並べる中国式のリブアーチといわれるものではなく
角錐台形のレンガ積みの欧州型といわれるものらしい。
石橋といえば、寛永11(1634)年に造られたという長崎の眼鏡橋が有名。
その後、熊本を中心に九州地方に広がっていったものらしい。
匹見地方の棚田にみる石垣築地などは
近世から明治期にかけて芸北地方の石工師によってもたらされたといわれている。
匹見にもこんな石橋が・・、と感嘆した。
石橋に限らず、何でも目をこらし、また目先を変えてみると
そこには新しく珍しい発見があるものだ。
まさに本石橋は、匹見の、いや益田市にとっての近代化遺産といえるものだろう。